芸大生は「理解不能な」天才でも、奇人変人でもない。
※この記事を加筆修正したものを、ハフィントンポストに投稿させていただきました。よろしければご覧ください。
芸大生は「理解不能な」天才でも、奇人変人でもない | 諸岡亜侑未
藝大は「秘境」ではない。
「あなたの知らない世界」ではなく、「あなたが生きている現実」の中に、芸大生及びその卒業生たちはいるということを、知ってほしくて書きました。
|「秘境」として見られることの危険性
最近、わたしの通う東京藝大を「最後の秘境」と銘打った本が売れている。本当に売れているのか疑わしく思っていたら、本当に本屋の入り口付近にデカデカと広告がありズラズラと大量に平積みにされていて驚いた。最初に言っておくが私はこの本を読んでいない。その場でパラパラッと立ち読みした程度で、あとはネットで検索して読んだ人の感想を見たくらいだ。
だからこの本自体を批評する筋合いは私にはない。
わたしが言及したいのは、本そのものと言うより今※芸大が世間一般の人にどう見られているかという問題である。
(※うちの大学に関しての話だけではないと思うので、全国の芸大美大を全て含めた意味として以下「芸大」とする。)
今の日本でこの本がこんなにも売れて芸大が好奇の目で見られているという現象に、わたしは危険を感じたし、そして何より悔しくて悔しくて仕方ない気持ちになった。あの本がでてからテレビでも取り上げられる頻度が増えたような気がする。「芸大美大生は他の大学の学生より、子供の頃に強く頭を打った経験を持つ人が多い」とかいう馬鹿馬鹿しいニュースがタイムラインに流れているのも見た。確かにある意味で少しばかり今芸大は注目されているかもしれない。だけど注目されれば注目されるほど、芸大生(もしくは芸術家)とそれ以外の人々との間の距離は広がり、その間を隔てる壁が立っていくのが見えるようなのだ。
例えば、「アートってよくわかんないんだよね笑」という人が、「芸大カオス!奇人変人の集まりで卒業生はだいたい行方不明」みたいな一文を見れば「ああやっぱり自分たちとは違う世界の人たちなんだなぁ~」と思うだろう、極端な言い方をすれば動物園の檻の外から変わった動物でも見るような気持ちで芸大生を見るだろう。
注目されているかもしれないが、彼らはわたしたちを「住む世界の違う人たち」として見ているのだ。
それを喜んではいけない。わたしたちが得たかったのはそういう種類の注目ではない。
作家は同じ時代に今生きている人たちに対して、アートを通してなんらかのメッセージや、警告、または哲学的な問いを投げかける。だけど作家が最初から「違う世界の人間」と思われている世界では、それらのメッセージは届かない。
そう、極端に言えば、こうした種類の注目は下手すればアートを殺す。
|「天才だね」は褒め言葉じゃない
「へえ芸大生なんだ、天才だねすごいね、やっぱり変わってるんだね。」と言われることがよくある。芸大生はそれを聞いて、喜んでいる場合じゃない。それは褒め言葉でもなんでもなく、「理解できない」から、あなたと自分は根本的に違う人間なんでしょ、という確認を取りたいのだ。「芸大生(や芸術家)は僕たち私たちの理解の及ばないところにいてほしい」という願望からの発言なのだ。
ここでもし「そうなんです、わたしって変なんですよね」って言ってしまえばむこうのもんである。「そうかやっぱりこの人は変なんだ、理解できなくて当然なんだ」と安心させてしまうことになる。
もし今上記のように言われれば、
「いいえ、わたしは『理解不能な』天才でも奇人変人でもありません。あなたと同じ世界に生き、同じ時代に生きている、あなたと同じ人間です。何も特別ではありません。」
と、例えわたしが世界的にめちゃくちゃ売れてる売れっ子作家だったとしても、そう返すだろう。例え耳が聞こえなかったり先天的な障害があったり同性愛者だったり、なんらかのマイノリティに属していたとしてもそう返すだろう。むしろ強調するかもしれない。
それは謙遜でもなんでもなく、事実だし、その事実こそが現代アートにとって重要なことなのだ。
わたしたちの創造しているものは、(例え一見難解な作品に見えても)ごく一部の洗練された人達にしか理解できないようなものでは、決してない。一見とても難解にみえる作品が、ときほぐしてみると実はとても日常的なことをきっかけに作られていたり、とても普遍的な感覚だったり、今の時代性をテーマに考察され作られているものだったりする。
もちろん、それらを無理に理解しろとは言わない。中には理解できないものだってたくさんあるだろう。それはそれでいい。だけどそもそもの初めから「理解できないもの」として距離を置かれることは違う。
当然だが作品をつくる作家だけがいてもアートは成り立たない。
それを見る人、理解する人、評価する人、批判する人、そういったそれぞれの「反応」があって初めて作品はアートとして成り立つ。作家がどれだけ頑張って素晴らしい作品を作っても、それを真摯に見てくれる人がいなければ、何の意味もない、李禹煥の石はただの石になり、Chim↑Pomのビルバーガーはただの廃墟になり、ダミアン・ハーストのサメはただのホルマリン漬けのサメとなり、デュシャンの泉はもちろんただの便器になる。
|アートがわからないという人へ
「アートがわからない」という人たちの気持ちが全くわからないわけじゃない。
わたしだって、わからないな、と思う作品はやまほどある。でも別にそれでいいのだ。わからないと思うなら、わからないと思ったその気持ちを大事にしてほしい。わからないことは恥ずかしいことでも悪いことでもなんでもない。いつか全然関係ないときにふとわかる時がくるかもしれないし、一生わからないかもしれない。何でかわからないけどこれは好き、これは嫌い、とか、そういう気持ちをまずは大事にしてほしい。その気持ちをうまく言葉にできなくてもいい。自分の中に感じるものがあっても、それをうまく言葉にできないと「わからない」と思ってしまうんだと思う。だけど、言葉にできない時は無理に言葉にしなくてもいい。
展示を見に行って、何か感想を言わなくては、と思わなくていい。「かわいいね」「かっこいいね」そんなことしか言えなくても構わないし、何にも言わなくっても構わない。そこに正解なんてないのだから、自分の気持ちに素直になればいい。誰がなんと言おうとあなたがその作品を良いと思ったら良いのだし、よくないと思ったらよくないのだ。
きっと「理解できない」と引いてしまう人は、自分が見たものに対して、自分で判断を下すことがこわいのだと思う。自分の判断に自信がないのだ。そうしてそういう人たちは芸大生や芸術家を「自分とは違う世界に住む天才たち」と思うことで、「そもそも自分がいい悪いを判断できるようなものではない」と安心する。
そういう人はだいたい、芸大生は(もしくは芸術家は)自由でいいねと言う。あなただって自由でいいのだ。作品を作る側が自由にやってんだから、見る側だって自由に見ればいい。
|行方不明じゃない
最近ブルータスやポパイなどの雑誌で「現代アートと暮らしたい!」とか「僕の好きなアート。」といった特集が組まれている。こういった特集はすごくポジティブでかつ現実的でありがたい。何が現実的ってブルータスには「今なら買える!」作品のカタログまでついている。お金とかの問題じゃなくて、そもそもアートを買うという発想がなかったわ!っていう人は多いと思う。こういう特集をきっかけにアートのマーケットがもっと開けたものになればいいなあと思う。ただ、どうしてもそうした記事と、冒頭に言った「最後の秘境」という本とでは、なんだか話が繋がらないように見えてしまう。その秘境と思われてるところにいる人やその卒業生たちが、「今買える」アートを作っていたりするんだけど…今の所本屋で「最後の秘境」が並べられている横に、そのブルータスやポパイ、あるいは美術手帖などの美術雑誌が一緒に並べてある様子はみたことがない。
つまり「最後の秘境」を読んだ人の中では結局、芸大生は卒業したら行方不明、で終わってしまうのだろう。彼らの卒業後の行方はちゃんとそれらの雑誌に載っているのに、そこにはたどり着かない。
もちろん作家の道を歩まないひともいる。企業に就職する人もいれば先生になる人もいる。それはそれでいいのだ。それぞれの人生なのだから。どっちが勝ちとか負けとか言う人がいるみたいだが、そういう人は最初から負けている。自分の人生は他人の人生と比べて勝ち負けを決めるものではない。
ただ問題は、広告に「え?卒業生の半分は行方不明。」というコピーがデカデカと書かれているのが示すように世間的には芸大の卒業生には「行方不明であってほしい」のだ。自分の現実と違うところで生き続けてほしいという願望が、世間にはある。
かくいう私も今年の春、スーツを着て普通に就職活動をしていた。そして私が、就活してるんです、というとショックを受ける人たちがいた。彼らは口を揃えて「就活なんてしないでほしい、君のやりたいことを自由にやって生きていってほしい」と言う。就職の決まった友達は、それを報告したら「なんで夢を諦めちゃったの?」と残念がられたそうだ。そういった発言はあまりに無責任で失礼だと思う。そういうなら、あなたは私の人生に責任を取れるのか、生活費でも恵んでくれるのか。
そもそも私も友人も「夢を諦めた」つもりなんてさらさらない。やりたいことをやるために就活しただけの話だ。彼女はやりたい仕事を見つけたし、わたしは仕事をしながら作家活動を続けるつもりだった。誰かに言われて就活したのではなく自分で選んでしたのだ。はっきり言うけれど、ここで彼らが言っている「君のやりたいこと」や、「(諦めちゃった)夢」は、わたしたちのやりたいことでも夢でもなんでもない。彼らがわたしたちに「やってほしいこと」であり「追いかけてほしい夢」である。
自分の夢を他人に背負わせてはならない。自分の夢は自分で背負ってください。それはとても重たいものですから。
ただ、こうした卒業生の行方云々の話は世間の目だけの問題ではないし、芸大内にもいろいろ問題はある。そこは長くなるのと少し話がそれるので割愛するけれど、とにかくそれぞれがそれぞれの形で自分の人生を選びとっているのだ。「あなたの知らない世界」ではなく、「あなたが生きている現実」の中に、芸大生及びその卒業生たちはいるということを、知っていてほしい。決して、行方不明ではないということも。
|最後に
わたしが今まで思っていたことを文章にしました。同じ立場の人であれそうでない人であれ、反論がある人もいるだろう思います。ただ、今のこのちょっとした「藝大ブーム」みたいなものに、「本当にそれでいいのか?」という一石を投じたくて、あえて強気な文体で書きました。文章内で「わたしたち」と何度も使っといてアレなんですが、芸大生を代表する声明ではありません。あくまでわたしの一個人意見ではありますが、わたしだけの問題ではないと思いそのような表記にしました。ただ、わたしの周りで同じ意見を持つ人が多数いるということも事実です。
しかし、こうした注目は、危険ではありますが、あるいは悪いことではないのかもしれません。その注目を、もっと深いところまでわたしたちが持っていくことができれば、わたしたちのやっていることを理解してもらえるチャンスになるかもしれません。芸術というものの重要性に気づいてもらえるかもしれません。そうした期待を込めて、書きました。
もちろんこの文章に対して様々な意見がでてくることもあるでしょう、むしろでてきてほしいと思います。議論する必要のある話題だと思っています。あなたが誰であれ遠慮せず自由に声をあげてほしいと思います。
そしてこの文章に賛同できる、もしくは議論の余地がある、そう思った方は、差し支えなければこの記事をシェアしていただければ幸いです。多くの人の目に触れてほしいと願っています。よろしくお願い致します。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
諸岡 亜侑未
※この記事に対する追記を書きました。よければ合わせてご覧ください。