言っとこうかなと思った。

東京藝大に6年くらいいる人が書きました。

ハフィントンポストへの投稿

「芸大生は『理解不能な』天才でも、奇人変人でもない」の文章を大幅に加筆修正したものをハフィントンポストに投稿させていただきました。

www.huffingtonpost.jp

 こちらのブログで記事を公開した翌日、わたしの書いた記事に対して、ハフィントンポスト様からブログ記事の転載の申し入れがありました。
 しかし全く同じ記事を転載するより、皆様から頂いた意見をじっくり読ませて頂いた上で加筆修正したものを掲載する方が良いだろうと考え、一旦元記事の拡散がおさまってからの投稿となりました。

 何度も同じような話ばかりするようで恐縮ですが、こちらもぜひ読んで頂ければ幸いです。

 

 ちなみに、最初に投稿した記事の方は、すでに多数のアクセスがありコメントも付いている状態ですので、書き換えることはせず、最初に投稿したままで残しておきます。

 

 ひとまず、この件に関してわたしの方から言及するのはこれが最後になります。ただ、ここに書いたことは答えではなく1つの問題提起です。これからも考え続けなければいけないことだと思っています。

 皆様のおかげでわたし自身より一層深くこのことについて考えることができ、とてもいい機会になったと思っています。

 

ありがとうございました。

追記 12/15

「芸大生は『理解不能な』天才でも、奇人変人でもない」に対する追記 12/15

moro-oka.hatenablog.com

 

まずはじめに、予想をはるか上回る方々に読んでいただき、たくさんの反応をいただいたことに、感謝しています。

批判も含め様々な意見がでてきたことを、とても嬉しく思っています。

見つけたものは全て興味深く目を通させていただきました。本当は一人一人のコメントに丁寧に返したいと思っていたのですが、自分の時間と体力的に難しそうなので(すみません)ここで追記と言う形として、皆様の意見を見て改めてわたしが考えたことを書き記したいと思います。

 

 

|本読みました。

 

 まず、やはり話題に挙げている本を読んでいないことに対するご指摘を多くいただきました。

本に対する批評のつもりではなかったのですが、とはいえそういう性質になってしまったのは事実であり、読まずにあの記事を公表したのはいささか乱暴で、無礼な行為であったと反省しています。

追記を書くにあたってKindle版で一通り読ませていただきました。その感想は後で述べます。

 

 言い訳になってしまいますが、わたしが悔しくて悔しくて仕方ないと思ったのは、もちろん全て読んでいないその本の内容ではなく、その本のセールスの仕方と、そのセールスにより結果本がめちゃくちゃ売れたという事実に対してです。

 あの記事に書いた文章は、わたしが6年間抱え続けていたものでした。ただ今回、そういったいかにもステレオタイプな宣伝文句で出版がセールスし、実際その売り文句に多くの人が惹かれそれを手に取ったという事実に、今までわたしがもやもやと抱え続けていた問題が、浮き彫りになって見えました。それが、記事を書いたきっかけです。

 

 そして、書評を書くつもりはなかったのですが、せっかく読ませたいただいたので書くことにします。

 

 立ち読みと周りから感想を聞いていた時点で、もちろん著者が藝大生を変人の集まりだと面白がって書いたわけではないと言うことは理解していましたし、彼は彼なりに理解しようという気持ちで行っていたことなのだというのも理解していました。ただ、どうしても掘り下げ方が浅いように感じていました。それがなぜなのか、読み終えてみてわかりました。あまりに、受け身すぎるのだと思います。

 インタビューしている相手は学生なのだから、もうすこし、相手にとって嫌かもしれない質問でもブッこんでしまえばよかったのではないかと思います。学生の将来に対する意識がふわふわしていると感じるなら、「そこちょっと甘いんじゃない?」とバッサリ言ってしまってもいいと思うんです。彼らに現実を突きつけてみて、どんな反応をするのかを、書いても良かったんじゃないか。学生の全ての発言に対して、肯定的すぎるというか、「ぼくには理解しきれない部分もあるけれど、きっとこの人たちはこういうものなんだろう」という受け身な姿勢から最後まで抜け出さないまま、もう一歩というところを踏み込めないまま終わってしまったように思います。

 

 多分、それが副題に「天才たちのカオスな日常」とついてしまった所以ではないかと思います。わたしは彼に、藝大生と同じ目線に立って取材してみてほしかったのだと思います。結局最後まで「憧れ」のフィルターが取れないまま、終わってしまったように感じたのが残念でした。

 ただ、美術音楽とほぼ全ての学科を周り、全く違うことをしている人たちの、似通った発言から共通点を探っていたのは、いい視点だと思いました。でも著者も創作者(普段はライトノベル作家だと聞いています)なら、著者自身、シンパシーを感じるものがあったんじゃないかな?と思ってしまうのです。

 

|芸大生にも問題がある

 

 壁を作っているのは芸大生でもある、という指摘をたくさんいただきました。

それは事実であり、そのことも含めて記事を書いたつもりでいたのですが、読み直すとなかなかそれはわかりづらい文章だったと思います。落ち着いて書いたつもりですが、やはり感情的になっていたのだと思います。ご指摘の通り、偏りがあります。

 

 理解不能な存在であることを喜んだり、奇をてらおうとする人がいるのは、事実です。そして、理解を示そうとしている人たちがいるのに「わからない人にはわからない」と壁を作ってしまっている人がいることも事実です。

 

 わたしは芸大生が、芸大以外の大学を「一般大」と呼びバカにするのが嫌いです。そういう人は確かにいますし、自分も無意識に言っていることがあるかもしれません。それは反省するべきだと思います。

 

 芸術をやっている人にしかわからない作品を作っても、それは内輪ネタでしかない。もちろん、それはもっとわかりやすい作品を作れという話ではありません。ただ、わからないという人に対してどうアプローチするべきかは、常に考えないといけない問題だと思います。

 理解してくれと、駄々をこねたつもりはありません。ただ、アートは「理解してくれる人たち」によって支えられているのだと、そういう人たちがいないと自分たちは何を作ったって意味がないということを、芸大生はしっかり意識するべきだと思ったのです。

 

 だって、「すこしでも多くの人にアートに興味を持って理解してほしい」という希望を捨ててしまったら、一体何のために作品を作るのでしょうか。

発信者である限り、それを諦めてしまったら意味がない。そしてそれは多くの人が指摘してくださったように相互の歩み寄りが必要だと感じています。

 

 

わたしはひとりの芸大生としてそして作家として、諦めたくないと思ったから声をあげました。そしてその結果、これだけの多くの意見が聞けたことは、本当にありがたいことだと思っています。

 

 

|逆に言ってしまえば、普通の人なんていない

 

 普通にならなくていいんじゃないの?という意見もよくありました。

 わたしには、「普通」がわかりません。普通の人なんて、どこにもいないように思います。

 

  わかりやすく言えば、芸大生も、そうじゃないひとも、もともとただの石っころです。その石っころ磨いてみたら、赤い色がでてきたり、青い色がでてきたり、透明な色がでてきたり、それぞれの「色」がでてきます。芸大生は多分、自分のその色をもっともっと綺麗に見せるために一生懸命磨いているだけにすぎません。もちろん、一生懸命磨いているのは芸大生だけじゃありません。料理人だって、プログラマーだって、営業マンだって、どんな職業のひとだって磨いているひとは一生懸命磨いていることでしょう。

 「いいねえ芸大生は、自分の色を持っていて」というひとがいます。あなただって、きっと持っていますよ。磨いてみたらいいですよ。そうしたら自分の色がわかるだろうし、色が出るまで磨くということが、どれだけ苦しいことかも、わかってもらえると思います。

 

 そして例えば、何百色という色見本を見せられて「普通の色はどれだと思いますか?」と聞かれたとします。

 普通の色って、なんだ…?と思いませんか。よくある12色を思い浮かべるかもしれませんが、赤は赤でも何十種類とある赤をみて、どれが普通の赤か、選べるでしょうか。

面白い話があります。人は誰一人として同じ色を見ていないんだそうです。それはそれぞれ持っている瞳の色が微妙にちょっとずつ違うからです。

見ている人によっても見え方がかわる。「普通の色」なんてない、わたしはそう思います。

 

※少し追記しておくと、わたしは元の記事であえて「普通」という単語を使っていません。言葉としてかなり揺らぎがあると思ったので使うのを避けました。

 多分「普通にならなくてもいいんじゃない」と言ってくださった方の思っている「普通」と、わたしの思っている「普通」は違います。そもそも前述したようにわたしには何が「普通」なのか、その判断基準がわかりません。

 わたしは普段自分に正直に生きている方で、そういう意味では人の目を気にしたことはほとんどありません。流行とは違うような服をきたり、流行とは違う音楽を聴いたりします。それを「普通じゃない」「あなたは変わってる」という人がいます。なんでだろう?と思います。そこでジャッジする意味がよくわかりません。

 人と趣向が違ったり、意見が違ったりすると、普通の人じゃなくなってしまう世の中の方が狂ってると思います。それが当たり前になっているから、マイノリティが差別されてしまうんじゃないでしょうか?

 ぜひ一度「普通」という言葉を使う前にその「普通」とはどういう定義のものなのか考えてみてください。

 

 

 いただいた意見をわたしが解釈しきれていない部分もあるかもしれません、ズレて受け取ってしまっているものもあるかもしれません。コメントは返すことはできませんが、必ず読ませていただきますので思ったことを書いていただければと思います。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

芸大生は「理解不能な」天才でも、奇人変人でもない。

※この記事を加筆修正したものを、ハフィントンポストに投稿させていただきました。よろしければご覧ください。

芸大生は「理解不能な」天才でも、奇人変人でもない | 諸岡亜侑未

 

藝大は「秘境」ではない。

「あなたの知らない世界」ではなく、「あなたが生きている現実」の中に、芸大生及びその卒業生たちはいるということを、知ってほしくて書きました。

 

|「秘境」として見られることの危険性

 

 最近、わたしの通う東京藝大を「最後の秘境」と銘打った本が売れている。本当に売れているのか疑わしく思っていたら、本当に本屋の入り口付近にデカデカと広告がありズラズラと大量に平積みにされていて驚いた。最初に言っておくが私はこの本を読んでいない。その場でパラパラッと立ち読みした程度で、あとはネットで検索して読んだ人の感想を見たくらいだ。

だからこの本自体を批評する筋合いは私にはない。

 

 わたしが言及したいのは、本そのものと言うより今※芸大が世間一般の人にどう見られているかという問題である。

(※うちの大学に関しての話だけではないと思うので、全国の芸大美大を全て含めた意味として以下「芸大」とする。)

 

 今の日本でこの本がこんなにも売れて芸大が好奇の目で見られているという現象に、わたしは危険を感じたし、そして何より悔しくて悔しくて仕方ない気持ちになった。あの本がでてからテレビでも取り上げられる頻度が増えたような気がする。「芸大美大生は他の大学の学生より、子供の頃に強く頭を打った経験を持つ人が多い」とかいう馬鹿馬鹿しいニュースがタイムラインに流れているのも見た。確かにある意味で少しばかり今芸大は注目されているかもしれない。だけど注目されれば注目されるほど、芸大生(もしくは芸術家)とそれ以外の人々との間の距離は広がり、その間を隔てる壁が立っていくのが見えるようなのだ。

 例えば、「アートってよくわかんないんだよね笑」という人が、「芸大カオス!奇人変人の集まりで卒業生はだいたい行方不明」みたいな一文を見れば「ああやっぱり自分たちとは違う世界の人たちなんだなぁ~」と思うだろう、極端な言い方をすれば動物園の檻の外から変わった動物でも見るような気持ちで芸大生を見るだろう。

 注目されているかもしれないが、彼らはわたしたちを「住む世界の違う人たち」として見ているのだ。

 それを喜んではいけない。わたしたちが得たかったのはそういう種類の注目ではない。

 

 作家は同じ時代に今生きている人たちに対して、アートを通してなんらかのメッセージや、警告、または哲学的な問いを投げかける。だけど作家が最初から「違う世界の人間」と思われている世界では、それらのメッセージは届かない。

 

 そう、極端に言えば、こうした種類の注目は下手すればアートを殺す。

 

 

|「天才だね」は褒め言葉じゃない

 

 「へえ芸大生なんだ、天才だねすごいね、やっぱり変わってるんだね。」と言われることがよくある。芸大生はそれを聞いて、喜んでいる場合じゃない。それは褒め言葉でもなんでもなく、「理解できない」から、あなたと自分は根本的に違う人間なんでしょ、という確認を取りたいのだ。「芸大生(や芸術家)は僕たち私たちの理解の及ばないところにいてほしい」という願望からの発言なのだ。

 

 ここでもし「そうなんです、わたしって変なんですよね」って言ってしまえばむこうのもんである。「そうかやっぱりこの人は変なんだ、理解できなくて当然なんだ」と安心させてしまうことになる。

 

 もし今上記のように言われれば、

 

「いいえ、わたしは『理解不能な』天才でも奇人変人でもありません。あなたと同じ世界に生き、同じ時代に生きている、あなたと同じ人間です。何も特別ではありません。」

 

と、例えわたしが世界的にめちゃくちゃ売れてる売れっ子作家だったとしても、そう返すだろう。例え耳が聞こえなかったり先天的な障害があったり同性愛者だったり、なんらかのマイノリティに属していたとしてもそう返すだろう。むしろ強調するかもしれない。

 それは謙遜でもなんでもなく、事実だし、その事実こそが現代アートにとって重要なことなのだ。

 

 わたしたちの創造しているものは、(例え一見難解な作品に見えても)ごく一部の洗練された人達にしか理解できないようなものでは、決してない。一見とても難解にみえる作品が、ときほぐしてみると実はとても日常的なことをきっかけに作られていたり、とても普遍的な感覚だったり、今の時代性をテーマに考察され作られているものだったりする。

 もちろん、それらを無理に理解しろとは言わない。中には理解できないものだってたくさんあるだろう。それはそれでいい。だけどそもそもの初めから「理解できないもの」として距離を置かれることは違う。

 

 当然だが作品をつくる作家だけがいてもアートは成り立たない。

それを見る人、理解する人、評価する人、批判する人、そういったそれぞれの「反応」があって初めて作品はアートとして成り立つ。作家がどれだけ頑張って素晴らしい作品を作っても、それを真摯に見てくれる人がいなければ、何の意味もない、李禹煥の石はただの石になり、Chim↑Pomのビルバーガーはただの廃墟になり、ダミアン・ハーストのサメはただのホルマリン漬けのサメとなり、デュシャンの泉はもちろんただの便器になる。

 

|アートがわからないという人へ

 

 「アートがわからない」という人たちの気持ちが全くわからないわけじゃない。

わたしだって、わからないな、と思う作品はやまほどある。でも別にそれでいいのだ。わからないと思うなら、わからないと思ったその気持ちを大事にしてほしい。わからないことは恥ずかしいことでも悪いことでもなんでもない。いつか全然関係ないときにふとわかる時がくるかもしれないし、一生わからないかもしれない。何でかわからないけどこれは好き、これは嫌い、とか、そういう気持ちをまずは大事にしてほしい。その気持ちをうまく言葉にできなくてもいい。自分の中に感じるものがあっても、それをうまく言葉にできないと「わからない」と思ってしまうんだと思う。だけど、言葉にできない時は無理に言葉にしなくてもいい。

 展示を見に行って、何か感想を言わなくては、と思わなくていい。「かわいいね」「かっこいいね」そんなことしか言えなくても構わないし、何にも言わなくっても構わない。そこに正解なんてないのだから、自分の気持ちに素直になればいい。誰がなんと言おうとあなたがその作品を良いと思ったら良いのだし、よくないと思ったらよくないのだ。

 

 きっと「理解できない」と引いてしまう人は、自分が見たものに対して、自分で判断を下すことがこわいのだと思う。自分の判断に自信がないのだ。そうしてそういう人たちは芸大生や芸術家を「自分とは違う世界に住む天才たち」と思うことで、「そもそも自分がいい悪いを判断できるようなものではない」と安心する。

 

 そういう人はだいたい、芸大生は(もしくは芸術家は)自由でいいねと言う。あなただって自由でいいのだ。作品を作る側が自由にやってんだから、見る側だって自由に見ればいい。

 

 

|行方不明じゃない

 

 最近ブルータスやポパイなどの雑誌で「現代アートと暮らしたい!」とか「僕の好きなアート。」といった特集が組まれている。こういった特集はすごくポジティブでかつ現実的でありがたい。何が現実的ってブルータスには「今なら買える!」作品のカタログまでついている。お金とかの問題じゃなくて、そもそもアートを買うという発想がなかったわ!っていう人は多いと思う。こういう特集をきっかけにアートのマーケットがもっと開けたものになればいいなあと思う。ただ、どうしてもそうした記事と、冒頭に言った「最後の秘境」という本とでは、なんだか話が繋がらないように見えてしまう。その秘境と思われてるところにいる人やその卒業生たちが、「今買える」アートを作っていたりするんだけど…今の所本屋で「最後の秘境」が並べられている横に、そのブルータスやポパイ、あるいは美術手帖などの美術雑誌が一緒に並べてある様子はみたことがない。

 つまり「最後の秘境」を読んだ人の中では結局、芸大生は卒業したら行方不明、で終わってしまうのだろう。彼らの卒業後の行方はちゃんとそれらの雑誌に載っているのに、そこにはたどり着かない。

 

 もちろん作家の道を歩まないひともいる。企業に就職する人もいれば先生になる人もいる。それはそれでいいのだ。それぞれの人生なのだから。どっちが勝ちとか負けとか言う人がいるみたいだが、そういう人は最初から負けている。自分の人生は他人の人生と比べて勝ち負けを決めるものではない。

 ただ問題は、広告に「え?卒業生の半分は行方不明。」というコピーがデカデカと書かれているのが示すように世間的には芸大の卒業生には「行方不明であってほしい」のだ。自分の現実と違うところで生き続けてほしいという願望が、世間にはある。

 

 かくいう私も今年の春、スーツを着て普通に就職活動をしていた。そして私が、就活してるんです、というとショックを受ける人たちがいた。彼らは口を揃えて「就活なんてしないでほしい、君のやりたいことを自由にやって生きていってほしい」と言う。就職の決まった友達は、それを報告したら「なんで夢を諦めちゃったの?」と残念がられたそうだ。そういった発言はあまりに無責任で失礼だと思う。そういうなら、あなたは私の人生に責任を取れるのか、生活費でも恵んでくれるのか。

 そもそも私も友人も「夢を諦めた」つもりなんてさらさらない。やりたいことをやるために就活しただけの話だ。彼女はやりたい仕事を見つけたし、わたしは仕事をしながら作家活動を続けるつもりだった。誰かに言われて就活したのではなく自分で選んでしたのだ。はっきり言うけれど、ここで彼らが言っている「君のやりたいこと」や、「(諦めちゃった)夢」は、わたしたちのやりたいことでも夢でもなんでもない。彼らがわたしたちに「やってほしいこと」であり「追いかけてほしい夢」である。

 

 自分の夢を他人に背負わせてはならない。自分の夢は自分で背負ってください。それはとても重たいものですから。

 

 ただ、こうした卒業生の行方云々の話は世間の目だけの問題ではないし、芸大内にもいろいろ問題はある。そこは長くなるのと少し話がそれるので割愛するけれど、とにかくそれぞれがそれぞれの形で自分の人生を選びとっているのだ。「あなたの知らない世界」ではなく、「あなたが生きている現実」の中に、芸大生及びその卒業生たちはいるということを、知っていてほしい。決して、行方不明ではないということも。

 

 

|最後に

 

 わたしが今まで思っていたことを文章にしました。同じ立場の人であれそうでない人であれ、反論がある人もいるだろう思います。ただ、今のこのちょっとした「藝大ブーム」みたいなものに、「本当にそれでいいのか?」という一石を投じたくて、あえて強気な文体で書きました。文章内で「わたしたち」と何度も使っといてアレなんですが、芸大生を代表する声明ではありません。あくまでわたしの一個人意見ではありますが、わたしだけの問題ではないと思いそのような表記にしました。ただ、わたしの周りで同じ意見を持つ人が多数いるということも事実です。

 しかし、こうした注目は、危険ではありますが、あるいは悪いことではないのかもしれません。その注目を、もっと深いところまでわたしたちが持っていくことができれば、わたしたちのやっていることを理解してもらえるチャンスになるかもしれません。芸術というものの重要性に気づいてもらえるかもしれません。そうした期待を込めて、書きました。

 

 もちろんこの文章に対して様々な意見がでてくることもあるでしょう、むしろでてきてほしいと思います。議論する必要のある話題だと思っています。あなたが誰であれ遠慮せず自由に声をあげてほしいと思います。

 

 そしてこの文章に賛同できる、もしくは議論の余地がある、そう思った方は、差し支えなければこの記事をシェアしていただければ幸いです。多くの人の目に触れてほしいと願っています。よろしくお願い致します。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

諸岡 亜侑未

 

 

※この記事に対する追記を書きました。よければ合わせてご覧ください。

追記 12/15 - 言っとこうかなと思った。